377「月島きらりと現実主義」



きらりん☆レボリューションWikipedia



前回もチラリと書いた月島きらりの活動に新展開。
自らが教育係を務める後輩アイドル・観月ひかると、期間限定ユニット【きら☆ぴか】を結成。
シングル『はなをぷーんふたりはNS』をリリースする事になったそうである。
そして今回、そのニューカマーの「中の人」として、勢い一番の℃-uteから萩原舞が登板との事。
これはなかなか面白い動きに…とかなんとか言いたいところなのだが、
実のところ、個人的にはあまり関心はないのだ。
そもそも、件のきら☆レボ自体あんまり観た事がないし(録画してまでというのもどうかと思うし)、
その中の人以外には、特に食指は動かされないのが本音だったりするのだが、
今回のテキストを書くにあたり、改めてそのストーリーやらキャラ設定などを確認してみると、
圧倒的とも言うべき、底抜けにベタな少女マンガの世界観であるにも関わらず、
どこか含蓄があるというか、一見単純で古風なアイドルのサクセス・ストーリーの中に、
「今という時代」が巧みに切り取られている作品である事に、少しばかり驚かされる。


きらりがアイドルを目指すきっかけが、ただ単なる芸能界への憧れではなく、
実は、好意を寄せる異性に近づきたくてのものだった…という設定からも解るように、
きら☆レボという作品の底流には、「アイドルだって所詮人間」という、
ドライ過ぎる現代の価値観が持つ現実主義のようなものが、しっかりと横たわっている。
そして、そもそも男女のいわゆる「想い想われ」の駆け引きを、
一般社会ではなく、わざわざアイドルという存在を通して描き出すという行為自体、
ひと昔前であれば、例えば「清純アイドルの隠れた私生活」的な、
ネガティヴかつ下世話な内容の中でしかあり得なかった事である。
それが今や、ちびっこファンも数多い、夕方のアニメ番組におけるメイン・テーマとなるのだから、
その感覚の「新しさ」たるや、ボクのようなオッサンにはちょっと理解し難い部分は正直言ってある。
だが、この感覚こそが、今現在、実際のアイドル界に生きる少女たちの、あるいはスタンダードなのかも知れず、
そうであれば、ファンとしてこの新しさを理解できずにいる事は、決定的な致命傷だと思うし、
それすなわち、ボクのようなオンボロのファンにとっての、大ピンチだという事でもあるだろう。


過度に理想を思い抱くから、それが崩れた時のショックが大きいのであって、
初めから、ある程度の現実を見据えて向き合えば、裏切られたと思う事もない。


ここ最近のゴタゴタの中で、こんな意見をよく目にした。
解り易く言えば、アイドルだって生身の人間で、そこいらの少女たちと変わらないのだから、
アイドルなどという妙な幻想の対象として縛り付けず、常に現実を直視していれば、
例えスキャンダルがあったとしても、ダメージなど受けやしない、という事なのか。
実際、そんな心持ちでアイドルを見ている人間がどれほどいるかは知らない。
だが、男関係だろうが育ちの良し悪しだろうが、明け透けに何でもかんでも曝け出されて、
そこに魅力など果たして感じ得るものなのだろうか。


それは何もアイドルという存在に限った話ではない。エンターテインメントならば、
どんなジャンルにおいても、「これこそが現実」という部分はなるだけ秘匿されるのが常だ。
以前、ミッキーマウスの例を引き合いに出したが、
中の人がいると解ってはいても、そこに触れないのが「お約束」。
その一線が崩壊すれば、ディズニーというエンタメの全ては灰燼に帰してしまう。
ディズニーとは違い、アイドル産業は生身の人間が主体。
そこに現実というものがつきまとう事は、ある意味仕方がない部分だが、
だからこそ余計に、ファンと演者が「見なくてもいい部分」「見せなくてもいい部分」を、
お互いにちゃんと理解し合い、両者の二人三脚で作りあげている楽しい時間が、
1分でも長く続いていられるように、不粋な行動は慎むべきなのだ。


まるで「これが平成19年のスタイルです」と言わんばかりに、
アイドルという作り物の幻想の裏側にある「現実主義」を、実に屈託なく描くきら☆レボの世界。
そして、その主人公を演じているのが、今話題のモーニング娘。ミラクルエースだという事実。
しかし、中の人までもが、冷酷な現実主義を貫いているとはボクには到底思えない。
モーニング娘。という母体に戻れば、またボクたちに「淡い夢心」を抱かせてくれる、
そんな久住小春であると、ボクは信じて疑わないのである。

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