324「サプライズなんていらねぇ」
紺野あさ美さん、カン娘。あさみ&みうなハロプロ卒業でエール(サンケイスポーツ)
先週末の予告編的な更新からも解るように、今週はずっと6期の事を書こうと思っていたのだ。
でも、どうしてもちょっと物申したい事態が週末の横浜で起こってしまった。
別に後回しにしても問題ないような、些細な事かも知れない。
だけど、このタイミングで発言しておかないと、なんとなく、
もういいか…というような感じになってしまいそうな気がするし、
これから先、過去を振り返ったときの、覚え書き的な意味合いにおいても、予定を変更して、今日書いておく。
それは「落下した男性」の方ではなく、「卒業した女性」の方のお話。
最初に話を聞いたとき「なんでなんだろう」とまず思った。
別に、「もう出て行った身なんだから、ハローとは絡むな」なんて、
そんなトチ狂った事を言うつもりは毛頭ない。
カン紺藤やガッタスを通じて、長い間喜怒哀楽を共にした、言ってみれば「同士」である訳だから、
その餞に華を添えるという行為そのものに、ケチをつけたりなんて野暮な事はしない。
でも、果たしてそれを、ステージの上でやる必要が本当にあったのだろうか。
例えば、客席でその姿を見届けた後、ステージ裏で花束贈呈。そして、そのまま打ち上げにも参加して、
積もる話に花を咲かせつつ、二人の新しい門出を盛大に祝う…
そういう感じなら、その主旨は大いに理解できるし、どんどんやればいいと思う。
でも、「芸能界をしばらく離れます」といって、あれだけ盛大に送り出した人間を、
半年も経たないうちから、ステージに上げるというのは、一体、何なんだろうと思うのだ。
何度も言うが、紺野が二人を華々しく送り出したかった気持ち。
そして、あさみとみうなが、一人でも多くの仲間に見送って欲しいと思った気持ちそのものに、
イチャモンをつけたりはしないし、そんな事はできっこない。
当たり前だが、彼女たち個人に何の恨みもある訳ではない。
ただ、多くの紺野あさ美を愛した者たちが、あの2006年7月23日を一つの区切りとして、
虚脱感も空白感も、全部ポケットの奥にしまい、「こんこんもがんばるんだから、自分もがんばろう」と、
気持ちをリセットして、前を向いて進んでいるという現実がある。
それなのに、余りにデリカシーのないというか、
そんな「なんでもあり」な展開が、いとも簡単に成立するというのであれば、
今後ボクたちは、どこで線を引いて、気持ちを出し入れしていけばいいのだろう。
仮に紺野本人や、あさみとみうなも含めた演者の強い希望だったとしても、
そこはタレントとしての紺野あさ美を管理する会社が、ちゃんとケジメをつけないといけないし、
もしも、最初から構成として決定していた、いわば規定路線のサプライズなのだったとすれば、ボクは非常に残念だ。
突然のサプライズに、確かにその場は盛り上がったかも知れない。
だが、本当の意味でその光景に感動し、感情移入できるのは、会場にいたカントリーのファンと、
「こんこんが出ないから」と会場に行かなかった、多くの紺野ファンたちなのではないかとボクは思うし、
その片方を欠落させた形で、紺野をステージに呼んでしまった事は、
作り手側の明らかな「失策」であったと、ボクは考えている。
素晴らしいステージに水を差しまくるような、不躾な物言いなのは十分解っているし、
きっと不快に思う読者諸氏もおられる事だろう。
ただ、表舞台から姿を消すという、ショッキングな事実を含んだ紺野あさ美の卒業は、
本人にとっても、そしてファンにとっても「特別」な事だったはずなのだ。
その思いが強くあるだけに、あまりに安易過ぎる紺野登板を、嘆かずにはいられないのである。
そして、もう一つ。
紺野が呼ばれるくらいであれば、なによりもまず先に呼ばなければならぬ存在がある。
カントリー娘。は、モーニングからのレンタルメンバーありきではない。
オリジナルメンバーの彼女――りんねがいてこそのカントリー娘。ではないのか。
あさみと二人、フォークロックを歌っていた、あの「良き時代」があったからこそ、
カントリー娘。はカントリー娘。足りえたのだ。
それを差し置いて、餞だサプライズだなどと、ボクから言わせればちゃんちゃらおかしい。
カントリー娘。の歴史と伝統を、ちゃんと体現できないサプライズなど、
はっきり言って、なんの意味もないとボクは思うが。