191「徒然なるままに」




もう今日あたりは、何にも書く気力がなかったりするのである。


ああいう事があって、虚構と現実のコントラストを嫌でも見せ付けられ、
どっちらけ感を抱かされながらも、それでも明日からもファンをやっていかなければならなくて、
精神的に今、ものすごく疲弊した状態なのだ。


「嫌なら辞めちまえばいいじゃねぇか」なんて声が聞こえてきそうだ。
確かに、こんな事があって嫌気がさして、ファンなんぞ辞めてやるわなどと啖呵を切れば、
それはそれでものすごく痛快だろうし、事実いろいろな面で楽にはなるだろう。
でも、たったこれしきの事で、ここまで築き上げてきたファンとしての生き様に
ピリオドを打つというのは、やはり本意ではない、
それに、今まで彼女たちに与えてきてもらったものの多さと素晴らしさを考えた時、
自分は客だから商品を選ぶ権利があるのだと、ドライに彼女たちを捨て去ってしまうというのは、
やはり違う気がするのだ。ボクにとっての彼女たちは、もはや愛玩用の商品などではなく、
言ってみれば人生の指針。なければ生活に確実に支障をきたすだろうし、
というかボクを形作っている全ては消えてなくなってしまう。
だから、何があってもボクは彼女たちを応援し続けなければならない。
そう。それは、ボクという人間に課せられた「永遠の義務」なのである。


もう、こういう踏み絵のような事はウンザリなのだが、
今、またしても我々ファンは試されている。


こういう危機的な状況下で、ファンというアイデンティティを保ち続ける事ができるか。
無論、それでも「戻るべき場所」として自分はい続けるのだという確固たる自信のあるファンは多かろうが、
言いがかりのような話だった安倍なつみの時や、惚れた晴れたのどうでもいいような話だった
矢口真里の時のような、取るに足らない騒動などではなく、今回の一件は社会的問題を孕んだ、
いささか厄介な物件。前の2回があくまでも「活動自粛」で、
なし崩し的に何事もなく復帰して大団円…
という安穏とした結末を迎えたが、今回はそうもうまくいきそうにはないし、
その復帰の時期も、我々が想像するよりもずっとずっと先のことになるかも知れない。
もっと言えば「最悪の事態」だって、不吉過ぎるが絶対ありえぬ話でもない。
そんな現状、ファンとして加護をそれでも待ち続けられる者がどれだけいるのだろうか。
この週末、いわゆるファンブログやサイトをいろいろ覗かせてもらったが、
活動自粛ではなく「謹慎」である事の重みを、
今ひとつ実感できていない感があるファンも多いような気がした。
例えば加護ちゃんがあんな事になってしまった。もちろんやった事はいけない事だし、
反省はしっかりとしなくてはいけない。僕たちファンも「しょうがないよ。もういいよ」
で終らせるのではなく、ちゃんと反省してくださいという意思はしっかりと表す。
それこそが健全な形であり、それを実行すべく書いたのが前回のコラムだった。


モーニングのニューアルバム、そして春ツアーの開幕。
その他のツアーやステージも続々とスタートしていく今後。
ハローのファンとして、悠長に悩んだり、苦しんだりしている余裕などこれっぽっちもないのである。