004「さよなら「友達にはなりたくないの」」


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つんく♂Pが他人にコンポージングを委ねた楽曲が、
図ったように高評価を得るという都市伝説はあまりに有名だ。


違うテイストを取り入れたいとか、マンネリ打破の起爆剤にしたいという
プロデューサーの研ぎ澄まされた判断によって
(カバー曲はちょっと毛色が違うけど)
言ってみれば「血の入れ替え」が行われる訳だが、
よく考えてみれば、
つんく♂完全プロデュースというのがある種の「売り」であるはずの彼女らに、
その当のつんく♂が曲を書かないという事は、
周囲から「あーとうとう」というような見捨てられちゃった感を持たれても
仕方のない部分があるだけに、本来ならハロプロのメンバーにとって、
あるいはヲタにとってはネガティヴなファクターとなるはずだ。
しかし、つんく♂以外のコンポーザーが書くハローの曲には、
何気に高クオリティの作品が多いのが現状で、
例えばそれが一定の評価を得た後
「じゃあ改めてつんく♂の曲に戻して…」みたいな話になった段に


「いやいや、評判ならそのまんま続行でいいじゃないですか」
となってくる。


でもまあよく考えればそれは自然の流れだし、
事実、そうした方が…と思わせる実例も無くはなかったりする訳である。


だが、必ずしもそれが当てはまらないという他面もある。
つまり、つんく♂が書き続けるからこそ、
そのメンバーの個性が生きるという考え方だ。


後藤真希のひとつ前のシングル「横浜蜃気楼」の曲を書いたのは、
シャ乱Q時代からの朋友であるはたけ。
そして今回のは同じくシャ乱Qたいせー
誰がとか、曲のデキがとかいう事ではなく、
後藤真希のシングル」につんく♂が曲を書かないという点に
ボキはなんとも言えない気持ちにさせられるのだ。


後藤真希ハロプロのエースであり、また救世主である事に異論はないだろう。


仮にハロプロが「つんく♂の理想郷」なのであるとするならば、
後藤真希はその象徴であり、寵愛なんて言葉を使うのは生臭いのでヤだけど
最もつんく♂が大事にしなければならない部分ではないのだろうか。
彼女が他人の手がける曲を歌う事に、なんというか言い方は悪いが
「そんなメロンやカントリーじゃあるまいし…」とか
完全なる偏見だけれどもそう感じてしまうのだ。
本流は守ってこそというか、
例えマンネリズムであろうとも「つんく♂の操る後藤真希」だからこそ
ハロプロのエースとしての格が活きてくるとボキは思う。


つんく♂の書いた後藤の曲には、ハロプロ内でも屈指の佳曲が多い
という純然たる事実もある。


やはり後藤真希には、金色よりもつんく♂色の方がよく似合うのである。