208「桜の花が咲く頃」



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スポーツフェスティバル後のライブを見ながら、
ライブとしての楽しさは当然の事として、これはいろいろ書きたい事が盛りだくさんだなあと、
書き手としての意欲を大いにそそられたりもしたのだった。
まずは手始めに、Berryz℃-uteについては先日書いた次第だが、
あのライブを見ながら、いの一番、真っ先に「これについては書かねばならぬ」と感じたのが、
実は、飯田圭織『桜の花が咲く頃』のパフォーマンスだったのである。


ボクが持つ、飯田圭織という人物についてのイメージは、
彼女がモーニング娘。として世に出たときから、絶対的に“和〜Japanese”だった。
それは別に性格が古風であるとか、年齢にそぐわないしとやかさを持っているとか、
そういう意味合いでの和風という事ではなくて、なんというか「純日本人的」とでも言えば良いのか、
まあそれを言い出せば、モーニング娘。のコンセプト自体がそうじゃないか!
という事になってしまうのだけれど、安倍なつみ中澤裕子、そして福田明日香にも石黒彩にも、
もちろん、その後の追加メンバーにも感じられなかった、
「生まれも育ちもニッポンの女の子感」というものを、彼女が年齢を経て、
モーニング娘。のリーダーとなり、そしてソロとして活動している現在に至ってもなお、
ボクは彼女に抱き続けていているのだ。
以前、ラジオ番組かなにかで、60年代や70年代のフォークが好きでよく聴くという話を
彼女がしていたことがあって、その話の印象もあってか、
ボクの中での「飯田圭織=和」のイメージは相当根強い物になっている。
だから、いわゆる地中海レーベルというヤツが、どうも自分の中でしっくりと来ないというか、
「いやいやいや彼女は地中海じゃなくて、オホーツク海でしょ」みたいな、
なんとはなしの違和感を、実はずっと持っていたりしたのである。
確かに、彼女がヨーロッパの名曲をマーベラスに唄う姿は、
今現在の彼女のビジュアルにおいてはベストマッチだと思うし、
ちょっとクセのあるそういう仕事を見事なまでにソツなくこなした彼女には、
さすがのキャリアだなと思わされたりしたのではあるが、
やはり彼女には日本人であって欲しいというか、ボクの持つイメージ通りの
「和の飯田圭織」であって欲しいという願望は、ずっとくすぶり続けていた。


収録されているアルバム『プラン・ダムール 〜愛がいっぱい〜』は
地中海レーベルからのリリースだし、実際の意図は違うのかも知れないが、
『桜の花が咲く頃』というタイトルを聞き、
よもや異国の地に咲く桜を思い浮かべる者などいないだろう。
そこにあるのは正真正銘、日本の春に咲き乱れ、そして舞い散る桜の花。
その情景を、やさしい歌声で飯田圭織が繊細に描いていく。
桜並木の中、舞い散る桜吹雪を見ながら、彼女が「キレイだねー」と何気なく呟き、
そして柔らかく微笑むようなイメージ。
それは、ボクがこれまでずっと待ち続けていた、飯田圭織という存在だからこそ醸し出せる、
究極の「和心」であり、彼女が唄うSSAの広大なアリーナに、
一瞬、心地よい暖かな春の風が吹き抜けたような気がして、
ボクは言葉では言い表せないほどの爽やかさ、そして感動を味わった。


もちろん、それが彼女に対する正しい認識なのかは解らない。
だが、少なくとも、『桜の花が咲く頃』を唄っている彼女は、
これまで見てきたどの飯田圭織よりも一番自然で、そして一番美しく見えたのは事実だし、
ボクが勝手に抱き続けている「飯田圭織は和である」というイメージも、
あながち間違ってもいないのかも…などと感じてしまうのであるが。果たして。